私達のサービス シュウ・デコールの考えるクリーニングとお洗濯 1 シュウ・デコールの考えるクリーニングとお洗濯 2 洋服歴史館
洋服歴史館
今当たり前に着ている洋服ですが、日本史上、およそ1900年間は着物を着用。明治に入って、洋服が正式の服装として国事に用いられるようになった訳ですが、庶民にとっては全く突然の出来事。現代になぞらえるならば、ある日突然「外出時は宇宙服を着用のこと」とされる様なもの。壮絶な大転換だったことでしょう。
洋服がどの様に日本にもたらされ、洋装化が進められたのか。洋服の歴史をちょっと覘いてみてください。
 南蛮服と呼ばれた時代
1543年 洋服の初上陸(ヨーロッパ人の初来航)ポルトガル船アバイス号が種子島に漂着、島民が救助する。
救助の返礼として鉄砲と共に洋服(上着、チョッキ、ズボン)が贈られた。
1571年 長崎港開港 南蛮貿易が盛んに行われる
羅紗、びろうど、モール、鹿皮などが輸入され、陣羽織、胴着の衿などとして戦国武将の間で流行。
1582年 天正少年遣欧使節団
1585年〜 秀吉時代 南蛮好みの流行
1613年 伊達政宗が支倉常長を欧州に派遣
このころ、ヨーロッパの勢力図が変化
スペイン、ポルトガルが衰退、英国、オランダが台頭。
1587年には、キリスト教の勢力の拡大を恐れて秀吉がキリシタン禁止令を発布
江戸時代に入り、家康が鎖国令を発令
〜しばらく洋服は姿を消す〜
 紅毛服と呼ばれた時代
1720年 洋書の解禁 蘭学の流行。
蘭学者 前野良沢、杉田玄白らが実用着として洋服を着用
1747年 オランダとの非公式な交易が始まる。
1823年  ドイツ人シーボルトがオランダ商館の医官として着任。
幕府の許可を得て、医療所兼蘭学塾(鳴滝塾)を開設。
出島やオランダ人屋敷で働く人々、シーボルトの従者やその周辺の日本人が洋装した。
 これ以後洋服と呼ばれる
1853年 ペリー来航
武士、町人などにも洋服が部分的に取り入れられるようになった。
1854年 日米和親条約締結
1855年  オランダ政府が海軍伝習派遣部隊を幕府に献納。
日本から参加した勝麟太郎(勝海舟)ほか170名の伝習生たちの制服として、オランダから洋服が輸入された。
1858年 井伊直弼が日米修好通商条約に調印
1859年 横浜開港
幕末の動乱期、尊攘派と開国派の対立が深まるにつれ、洋服を着用する人が暗殺の対象となり、洋装は一部の武士を除いて敬遠される時期が暫く続いた。
また、幕府による部分的衣服禁止令(急進的な異国への傾倒を牽制するため)も発令されたが、軍事訓練の必要から服装を改良、実情を考慮し幕府艦乗組員(御軍艦方)に対する洋服着用禁止令の解除が行われるに至った。

1861年 武家服装の改革 長裃廃止 洋装化が本格的に始まった。
 日本人による初めての洋服縫製
1864年 第一次長州征伐の為の2千人分の軍装を、小伝馬町の幕府御用商人 守田治兵衛が外国人の古着を参考に足袋屋や仕立屋の職人を集めて仕立てさせた。
1865年 幕府が陸軍伝習所を建立。伝習生の沼間守一が、神奈川県の外国人居留地の警備隊の軍備としての洋服を調達する為に、小柄な英国軍人の古着を買い、解体して型紙を作り足袋職人に仕立てさせた。

この時の職人の多くが、後に黎明期の日本洋服界の指導にあたる洋服裁縫師となった。
1867年  大政奉還
1871年 11月12日 太政官布告399号により「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」旨布告された。
 近世西欧における男子服装の変換
1810年頃 燕尾服 1840年頃 フロック・コート 1850年頃 背広の原型ができる。
 〜こぼれ話1〜
「洋装による結婚式第一号」明治8年(1875年)2月 森有礼夫妻
森有礼は、薩摩藩出身、米・英国に留学。外国官権判事、後に教育制度改革に貢献。福沢諭吉、西周らと明六社を創設、文明開化を思想的に推進させた。
この時の結婚契約書には、紀元2035年二月六日と日付が記され、証人は福沢諭吉、式の立会人は、大久保一翁だった。当日、大久保一翁は狩猟服を着て出席し、顰蹙を買った。この頃既に、日本でもひととおりの洋服のTPOは認識されていた様です。
 〜こぼれ話2〜
日本洋服界の黎明期すなわち明治初頭の仕立職人の苦労は、私達からは想像もつかないものでした。

「一流仕立職人への道」
技術を身につけるには、丁稚奉公しか道はありませんでしたが、それとて技術を手取り足取り指導される事など許されていなかったそうです。
先輩への質問ばかりか、仕事振りを見ることさえご法度、同僚への質問も許されませんでした。これでどうやって技術を習得出来たのか、驚くばかりです。厳しい丁稚の修業の間、親方や先輩の仕事振りを横目で盗み見て、後はひたすら自分で工夫するしかなかったようです。一人前になってからも、仕事をしながら縫いかけの洋服を自分の前にかけて眺め、眺めては縫い、自己研鑽したそうです。他人の盗み見は許されないし、人が来れば仕事の最中でも大急ぎで盤台の下に縫いかけの洋服を隠してしまうので、他人の仕事をまねること等は到底無理な事だった様です。

「技術の精巧さ」
独自の工夫と研鑽のみがテーラーとしての地位を確立する唯一の術であったので、手仕事の精巧ぶりは目をみはるものがあったようです。
その一例、ボタンホール。ボタンの穴かがりは、今は機械縫製が殆どですが、当時はもちろん手縫い。しかも、穴の上下の針目の数が同一でなければならなかった。糸が一本でも上下違っていると笑いものとなったそうです。

「丁稚の仕事」
当時は十二、三歳で上京し丁稚奉公を始めるケースが多かった様です。
最初の一年程は、下駄もはかされず素足で、工場の掃除、アイロンの炭火おこし、使い走りだけの毎日。その後しばらくの間、基本的な仕事(道具の扱い方や、運針など)を習い、年期は7年で明けます。丁稚の間の小遣いは、毎月一日と十五日に五銭ずつの月十銭。年期明けに主人から、羽織着物一式と二、三円の小遣いがもらえたそうです。

参考文献「日本洋服史」株式会社 洋装社

HOME
Copyright (C) 2003-2004 shyu kawaguti Corporation. All Rights Reserved